サボリヤ

くもり夜空と律儀な旧友


テーマ「帰」 オンライン文化祭2013 参加作品
(2013.11.03)

 子犬ですらくつろげないような狭いベランダに出て、日が落ちて間もない空を見上げる。月を見たかったのだが、分厚い雲に覆われていてそれは叶わない。心の中で舌打ちをして振り返る。今朝、家を出たときのままになっているテーブルの上の食器。室内干しの洗濯物。掛け布団の乱れたベッド。1DKの部屋には隅々まで生活感が漂っていた。
 だから、内田奈緒子はもう一度夜空に視線を向けた。就職と共にこの部屋へ越してきて、もう五年になる。職場では居場所を確保するために必死でやってきた。そのために費やされた時間を惜しむつもりはない。しかし、このまま六年、七年……と数字が積み上がっていくことには少し恐れがある。
 友人たちはひとり、またひとりと結婚していく。羨ましいというわけではないが、お遊戯の輪に入りそこねた子供のような、仲間はずれの小さな寂寥感があった。

 突然、チャイムが鳴った。

 奈緒子はサンダルを脱ぎ捨てて部屋へと戻る。誰かが尋ねてくるような予定はなかったし、ネット通販で注文もしていない。不審に思いながらインターホンの画面をのぞき、来訪者の姿を確認したところで奈緒子は硬直した。
 知っている顔だ。だが、ここを訪れるはずのない人物。
「おーい。ナオ、いるんでしょ。開けてよー」
 ドアを隔てて喚き声が聞こえる。このまま放置していれば近所迷惑になる。観念して、奈緒子は恐る恐る玄関のドアを開けた。
 来訪者は奈緒子の顔を一目見ると、
「遅い」
 怒りをあらわに文句を言った。するりと玄関へ立ち入ると、靴を脱ぎ奈緒子に背を向けて屈む。横柄な態度で強引にドアを開けさせたわりには、きちんと靴を揃えている。
 ああ、やっぱりあの子で間違いない。
「おっじゃましまーす」
 妙な節を付けて言う。その声に記憶が呼び覚まされる。
 高校時代の同級生――吉井千穗だった。

                    * * *

 ある日の休み時間。
 前の席で千穗がうんうん唸っている。背後から机をのぞき込むと数学の問題集が広げられていた。
 また始まったか。奈緒子は冷ややかな目で千穗の丸まった背中を見る。
 千穗の成績は奈緒子と同じくらい。クラスで順位を付けるなら下から数えた方が圧倒的に早い。現実を受け入れてすっかり諦めている奈緒子に対して千穗は、
「このままじゃいけない!」
 などと言って、突如やる気を見せることがあった。けれども、いつだって長続きはしないのだ。

 数学の授業が始まる。
 担当する教師は体格が良く厳つい顔をした男で、特に手入れのされていない伸び放題の太い眉が特徴的だった。生徒たちが付けたあだ名は「西郷」。見た目に反して神経質な男で、いつも疑るような視線で教室内を見渡していた。
「この問題……。吉井、わかるか?」
 黒板にチョークを走らせていた西郷が振り返り千穗を指した。千穗は席を立ち、黒板の数式を眺める。十数秒の沈黙の後、掠れた声で千穗が答えた。
「わかりません」
 授業開始五分前からの予習ではカバーできなかった模様。
「だろうな。先生も期待していなかった」
 教室のどこかでクスクスと笑い声が上がった。
「じゃあ、次。山下、お前ならできるだろ?」
 西郷はもう千穗を見ていない。
 腰を下ろして椅子を引く動作だけで、千穗が怒っているとわかった。

 やがてチャイムが鳴り、生徒たちが解放される。そのざわめきの中で千穗が振り向き耳打ちをしてきた。
「ナオ、せんせーに質問しなよ。あの黒板の問題、わからないでしょ」
「なんでそんなこと……」
「いいから」
 理由はわからなかったが、目をぎらつかせ頬を紅潮させている千穗の表情を見て素直に従うことにした。
 教卓まで歩いて行って、教科書や資料をまとめていた西郷に話しかける。
「先生、あの問題について教えてほしいのですが」
「内田が質問に来るなんて珍しいな。どこがわからない」
 奈緒子は思いつきで話を続ける。
「公式を当てはめてもあの答えにならなくて……」
「お前、設問の意味をちゃんと理解しているのか?」
 西郷の説明を聞き流しながら、視界の端で千穗が教卓に近づくのが見えた。
 奈緒子は千穗の方を見ないように努めて西郷との話を引き延ばす。やがて、西郷の口調に苛立ちが含まれるようになる頃、奈緒子は話を切り上げた。
 すでに千穗は自分の席へ戻っている。奈緒子がその脇を通り過ぎる時に、千穗が小声で言った。
「チャイムが鳴ったらB組へ行くよ」
「おっけー」
 何かが起こりそうな予感に奈緒子は胸を躍らせていた。

 B組を指定した理由はわかっている。西郷の次の授業はB組だ。
 数学教師が教室の中へ入っていくのを見届けて、奈緒子と千穗は廊下の隅からそっと中の様子を伺う。
「さっき、何したの?」
 そろそろ教えてもらってもいい頃だろう。
「これ」
 千穗はポケットから黄色いスティック状のものを取り出す。
「瞬間接着剤。ストラップを直そうと思って買ってあったの」
 千穗が携帯電話に付けている古いストラップ。そういえば、壊れたと言って昨日騒いでいたっけ。高価なものではない。どこにでもあるキャラクターをかたどったプラスチック製のストラップだ。奈緒子なら捨てて新しいものを買い直すだろう。千穗は妙なところで律儀で真面目なのだ。
「出席簿、貼り付けてやった」
「マジ?」
 教壇に立った西郷が出席簿を手にする。開こうとするが開かない。異変に気付いたようで、今度は両手をかけて表紙を引きはがそうとする。それでも開かない。うろたえている様子を生徒に見せたくなかったのか、しまいには出席を取ることを諦めてしまった。
 奈緒子は吹き出しそうになるのを必死で堪えていた。西郷があの太い眉をひそめて出席簿と格闘する姿がおかしかったのだ。隣を見ると千穗も同じように口を押さえていた。
 どちらともなく廊下を駆け出し、人気のない階段の踊り場までやってくると弾かれたように声を上げて笑った。
「千穗、サイコー!」
「でしょー」
 二人はハイタッチを交わす。笑い声はなかなか収まらなかった。

 放課後、ハンバーガーショップで奈緒子と千穗は時間を潰していた。流行のアイドルに関する議論から始まって、自然と彼氏がほしいという話題に移っていった。
「うちの学校の男子、ショボいじゃん。どっか良い出会いないの?」
 奈緒子は大げさに溜息をついて見せた。
「私、この間駅前で大学生にナンパされたよ。今度、バイクに乗せてもらって海へ行くんだー」
 千穗が目を合わさないで言う。
「あっそ……。そろそろ帰ろっか」
 奈緒子は白けてしまった。こんな田舎の駅前でナンパしている男なんて見たことがない。しかも、今時バイクに二人乗りでデートなんてあまりにセンスがない。千穗は時折くだらない見栄を張ることがあった。
 席を立ちトレーに載っているものをゴミ箱へ突っ込もうとすると、後ろから来た千穗が手で制した。
「分別!」
 奈緒子から空のドリンクを引ったくると、紙コップとプラスチックの蓋に分離し別々の窓へ投入していく。本当に妙なところで真面目なのだ。

                    * * *

「で、どうしてあんたが今、私の目の前にいるわけ?」
 千穗は奈緒子が促すのを待つこともなく、すでに狭い部屋の絨毯に腰を下ろしていた。室内を物珍しそうに見渡しながら、肩に緩くかかった髪を指先で弄っている。その幼い仕草もあの頃のままだった。
「悪い?」
 ああ、この表情。やはり千穗に間違いない。怒ると頬が赤みが差すのですぐにわかる。
「悪いよ」
 奈緒子は絞り出すようにして言った。
「だって、あんたはもう死んだはずでしょう」

 あのハンバーガーショップでの他愛のない会話から数日後、千穗はバイクの事故で亡くなった。奈緒子の知らないどこかの大学生の男と一緒にこの世を去った。あの日の話は嘘ではなかったのだ。

「そっか。ああ、そうだった。たしかに死んだわ」
 その軽い調子に怖がっているのが馬鹿らしくなってくる。
「化けて出るのはいいけど、どうして私のところなのよ」
「どうしてだったっけ? 何か理由があった気がするけど、……忘れた」
 奈緒子は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、栓を開けて喉へ流し込んだ。
 もちろん千穗に同じものを渡したりなんてしない。未成年に酒を勧めるつもりはなかった。そのままベッドに腰をかける。
「それってお酒じゃない? 大丈夫?」
 千穗が心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫に決まってるでしょう。私、もう大人なの」
「そっか」
 千穗が身につけているのは高校の制服だった。見ていると懐かしさと感傷がこみ上げてくる。早く酔ってしまいたかった。
「最近、何してんの?」
「ちっさい会社で経理やってる」
 その答えにピンとこない様子だった。
「ふうん、それって面白いの?」
「面白くはないかな」
 少なくとも学校で数学教師の出席簿にいたずらをするよりは。
「ねぇ、大人になるってどんな気持ち?」
 アルコールのせいか考えがまとまらない。
「よくわからない。自分が本当に大人なのかさえはっきりしないもの」
「さっきと言ってることが違うじゃん」
 千穗は呆れたように言った。
「あ、そうだ! 借りてたDVD返してない」
 すぐには何のことかわからなかったが、たしかに、当時千穗にDVDを貸していたことを思い出す。奈緒子の好きな映画で彼女にも見てほしかったのだ。
「そんなのいいわよ。今、あんたが言い出すまですっかり忘れてたわ」
 奈緒子は部屋の隅のラックを指差す。
「ほら、同じやつ。買い直してるし」
「あ、本当だ」
 千穂は少し悲しそうな表情を見せた。
「もしかして、それだけの理由で私のところへきたの?」
「どうかな、わかんない」
 気付くと缶は空になっていた。少しふらつきながら立ち上がる。奈緒子は酒に強い方ではない。それでも、冷蔵庫を開けて二本目のビールを取り出す。
 一口飲み千穂へと向き直ると、彼女も奈緒子をじっと見つめていた。目が合う。
「ねぇ、ナオ。何か辛いことあった?」
 優しい声色だった。
「何もないよ」
 反射的に言った。
 千穗は目を伏せた。そして、ためらいがちにそっと告げた。
「たぶん、奈緒子が望んだんだよ。私に帰ってきてほしいって」
 その言葉に缶を持つ手が震えた。
 ――私が千穂を望んだ?
 それはあまりに情けない事実だった。
「何か勘違いしてない? 私、あんたのこと好きじゃなかったよ。つまらないことばかり気にするくせに変なところで大胆でさ」
 千穗は反論したいのに言葉が見つからないようで、頬を紅潮させながら口をパクパクさせていた。奈緒子は缶に残ったビールを一気に飲み干すとベッドへ倒れ込んだ。
 急激に酔いが回るのを感じた。混濁した頭で無理やり言葉を紡ぐ。
「千穗のことが羨ましかった。私も千穗みたいに、ちっぽけないたずらでつまらない毎日に反抗してやりたいんだ」
 閉じた瞼の向こう側で千穗が自分をのぞき込んでいるのが感じられた。
「やればいいじゃん」
 そんなに単純じゃないんだ。
 たった十七年でこの世をリタイヤしたやつに何がわかる。
 それでも、その言葉に少しだけ気持ちが楽になったような気がした。夜空を覆った雲に、わずかな裂け目が生じて弱々しい月光が差し込んだような。
「もう私を呼んじゃダメだよ。ルール違反は苦手なの」
 奈緒子を諭すように言った。
「帰れよ」
 ごめんね、千穂。
 玄関のドアが閉まる音を聞いたような気がした。


 翌朝、目覚めると枕元には千穗に貸していた映画のDVDが置かれていた。
 本当に律儀な奴――。
 カーテン越しに差し込む朝日の中で、奈緒子は少しだけ泣いた。

 それ以来、奈緒子の部屋のラックには同じDVDが二枚並んでいる。

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